2007年8月18日土曜日

一人前になるということ


セミの終齢幼虫が脱皮の場所を求めてセコイアの幹を登っていた。久しぶりに見る光景だった。
ちゃんと羽化できるまで安心はできないが、何年かぶりに見る地上の光はさぞ眩しいことだろう。
昨日、京王線の特急に乗っていてふと足下を見ると床にペタリとしゃがんで漫画を読んでいる低学年くらいの子どもがいた。横には母親らしき30代くらいの女性がすまして立っている。
ひとりの人間が「電車の中で床にしゃがむのは恥ずかしいことなんだ」ということを、ほかの誰でもない親から教わる機会を逃したその瞬間であった。この子はこの後、ほかの誰かから同じことを諭されたとしてもたぶんキョトンとするだけだろう。子は親を見て、大人を真似て育つ。この母親も同じようにその機会を与えられず大人になったのだろう。
道を歩きながら、あるいは電車の中でパンをかじったり、飲み終わった空き缶をその場で投げ捨てたり、すし詰めの満員電車で必死にスペースを確保してまで漫画を読みふけったり・・・。これらの半人前の人種を「再教育」するのは年齢的に無理だろうから、周囲の親しい人間がうまく折り合いをつけていくか、または離れていくかのどちらかを選択するだけのことだ。
私は常識やマナーの大切さをいちいち説きたいわけではない。将来的にこの種の人間が増えていき、想像力の欠けた者(一人前でない人間)が主役となってリードしていく世の中を想像したくないのである。
躾は幼い子を持つ親として身につまされるテーマである。「俺がこの家の法律だ」ぐらいの覚悟でないと伝わるものも伝わらないのかもしれない。「こどもの人権が」とか「こどもにも価値観が」などという議論は「識者」に任せ、目の前の子どもに俺流を教え込んでいくしかない。それに価値観なんてものは親が何を言おうが子どもが勝手に見いだしていくものだろうし。
アブラゼミの幼虫はDNAにしたがってひとりで地面から這い出して幹を登れるのだけど、人間は言葉を介してしか一人前になる術を伝えられない生き物だろうから。

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