2007年8月26日日曜日

夢のような時間


数日前、尊敬する、あのムツゴロウこと畑正憲さんに会うことができた。中学の頃からエッセイを中心にその著作を30冊以上は愛読してきたからそれは感激の時間であった。緊張のあまり完全に舞い上がっている私の問いをじっくり聞いたあと、静かに、そしてゆっくり言葉を選んで話を聞かせてくれた。かと思うと、突然眼を見開いて声のボリュームを上げることもあった。あのリズム溢れる文体そのままだった。
私が持参した「どんべえ物語」(角川文庫)のとびらに、サインとヒグマの絵を描いてくれた。別れ際に握手。ムツゴロウさんひとこと「細いなあ〜、腕相撲やったら勝っちゃいそうだな」。こんなことを目上の人に言われたのは久しぶりだったし、なんだか嬉しかった。ああ、負けてもいいからチャレンジすればよかったなあ〜。

2007年8月18日土曜日

一人前になるということ


セミの終齢幼虫が脱皮の場所を求めてセコイアの幹を登っていた。久しぶりに見る光景だった。
ちゃんと羽化できるまで安心はできないが、何年かぶりに見る地上の光はさぞ眩しいことだろう。
昨日、京王線の特急に乗っていてふと足下を見ると床にペタリとしゃがんで漫画を読んでいる低学年くらいの子どもがいた。横には母親らしき30代くらいの女性がすまして立っている。
ひとりの人間が「電車の中で床にしゃがむのは恥ずかしいことなんだ」ということを、ほかの誰でもない親から教わる機会を逃したその瞬間であった。この子はこの後、ほかの誰かから同じことを諭されたとしてもたぶんキョトンとするだけだろう。子は親を見て、大人を真似て育つ。この母親も同じようにその機会を与えられず大人になったのだろう。
道を歩きながら、あるいは電車の中でパンをかじったり、飲み終わった空き缶をその場で投げ捨てたり、すし詰めの満員電車で必死にスペースを確保してまで漫画を読みふけったり・・・。これらの半人前の人種を「再教育」するのは年齢的に無理だろうから、周囲の親しい人間がうまく折り合いをつけていくか、または離れていくかのどちらかを選択するだけのことだ。
私は常識やマナーの大切さをいちいち説きたいわけではない。将来的にこの種の人間が増えていき、想像力の欠けた者(一人前でない人間)が主役となってリードしていく世の中を想像したくないのである。
躾は幼い子を持つ親として身につまされるテーマである。「俺がこの家の法律だ」ぐらいの覚悟でないと伝わるものも伝わらないのかもしれない。「こどもの人権が」とか「こどもにも価値観が」などという議論は「識者」に任せ、目の前の子どもに俺流を教え込んでいくしかない。それに価値観なんてものは親が何を言おうが子どもが勝手に見いだしていくものだろうし。
アブラゼミの幼虫はDNAにしたがってひとりで地面から這い出して幹を登れるのだけど、人間は言葉を介してしか一人前になる術を伝えられない生き物だろうから。

2007年8月13日月曜日

昼間のカマキリ


外を歩くときはつい木の幹や草に虫の姿を探してしまう。今の時期に見かけるのはもっぱらアブラゼミだが、たまにはこんな珍客も。夜行性の昆虫なので昼間はこうしてじっとしているようです。ちなみに夜間のカマキリの眼は真っ黒になります。

2007年8月10日金曜日

8月だけどニイニイゼミ


今年はニイニイゼミの声(?)をよく聞くし、立秋を過ぎてもよく見かける。きのう、家に着いてマンションの廊下でひっくり返っていた個体を発見。「そうかそうか、短い生を楽しんだかい」と手に止まらせてみると、羽も傷んでなくてけっこうきれい。写真を撮ってからベランダのアボガドの木に登らせようとしたら、元気に飛んでいきました。何のことはない、羽化したばかりだったようで。
芭蕉の「岩にしみいる蝉の声」の主だったと言われるちっちゃなニイニイゼミ。色が地味で蛾に間違われたりするし、たまに見る抜けがらが何故か泥を被っていたりするけど、とても愛らしくて好きです。

2007年8月4日土曜日

阿久悠さんの言葉


作詞家の阿久悠さんが亡くなられた。毎週土曜日の新聞の時事コラム「阿久悠 書く言う」が好きだった。6月以降、連載が止まっていたのでどうしたのだろうと思っていたところだった。
コラムの阿久さんは、いつも何かに怒っているようで、読む方もつい待ってました!と「今週の阿久語録」を期待してしまうのだが、いっぽうで「それを言っちゃおしまいよ」の寅さんのようにどこか温かくフォローするところがあった。物事に苦言を呈するときはステレオタイプでなく、阿久さんなりの客観的な状況判断を働かせた上で論じる。決して突き放すような言葉は使わない人だった。
そんな阿久さんの逝去を報じるニュースで本業の作詞家としての軌跡を見た。ピンクレディーは言うに及ばず、「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)、「北の宿から」(都はるみ)、「青春時代」(森田公一とトップギャラン)、「時代おくれ」(河島英五)、「熱き心に」(小林旭)、「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「鳥の詩」(杉田かおる)、「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行)、「ウルトラマンタロウ」、「宇宙戦艦ヤマト」(ささきいさお)、「デビルマンのうた」、「哀愁物語」(村下孝蔵)……。自分の記憶に濃密に刻まれた作品だけ挙げてもこれだけの数になるし、どの歌も今でもスルスルと口ずさむことができる。
若い妻が夫を殺害してバラバラにしタクシーや電車で遺体を遺棄した事件の報道に対しては、マスコミが「エリート」「ブランド」「セレブ」などの「称号のようなカタカナ」を連呼していることを指して、「格差を厭いながら、格付けを妄信することの矛盾に早く気がつかないと、犯罪がセレブの資格になったりする」(産経新聞『阿久悠 書く言う』より)と阿久さんは論じていた。
5000曲以上といわれる著作の数もさることながら、これだけ人口に膾炙した作品を遺した阿久さんのコラム「書く言う」がもう読めないのは本当に残念だ。心からご冥福をお祈りします。