鹿児島本線折尾駅 |
そこでどうしても気になるのは本のテーマではなく、掲載されている写真の色だ。 デジタル特有の、というのだろうか、どの写真もメリハリがなく、例によって緑や肌の発色が「破綻」している。でも、色校正の作業を経ていないわけはないだろうから、版元はこの色でいいのだろう。しかし、これは堅苦しく言えば写真の技法書である。これでいいのだろうか。これらの本のなかには初心者向けばかりでなく、ライティングを詳述するセミプロ向けのものもある。
最近写真雑誌の一派を形成しているのが、いわゆる「カメラ女子」ものだ(このナントカ女子というネーミングも発想が安易で好きでないが)。「彼女たち」はカラーネガの発色の虜になっているようで、その色合いや撮影対象を身近な小物や人物に設定して楽しむことに主眼を置くなど、明確なポリシーが存在しているように感じる。色に関してもネガフィルムの特性通り「ラチチュード」(許容範囲)が広いようであり、あえてその発色を想定して楽しんでいるのがわかる。
ちなみに自分もその発色をイメージしながらときどきフィルムをキャノンNewF−1に詰めて撮影を楽しんでいる。
いっぽう、既存の、というかマジョリティーな写真趣味人と版元の編集者たちは、毎月発行されるカメラ雑誌をはじめとする多種多様なメディアにおいて最新のカメラの使用レポートで僅かな色設定の違いやレンズの色収差、メーカー別の肌色の発色の違い、などを事細かに確認しながらカメラ学を習得しているわりには刷り上がった本の写真の色がメチャクチャということを繰り返している。
デジタル写真データの印刷には、いわゆる「カラーマッチング」というハードルが存在するのはわかっている。デジタル写真のデータはRGBだが、印刷はCMYKだから調整が必要ということだ。問題はこれだけデジカメが普及し、印刷にまわるほとんどの画像がフィルムでなくデータに置き換わって久しいというのにこの肝心の部分が進歩していないという点である。いや、正しくはミスマッチが問題として意識されていない「不作為」というべきか。もちろん、一部の媒体にはきちんとマッチングが為されたものもある。
編集者としての自戒も込めて思うのだが、写真の色をおろそかにした書籍や雑誌は、どんなにその構成、文が秀逸だったとしても三流と見られて仕方ないと知るべきだ。 フィルムからしっかりと分解された写真の滑らかな階調と深い陰影を見るたびにそう思う。
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